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令和2年度 応永・永享期文化論研究会レポート②

研究代表者:大橋直義 呉座勇一
開催日時:令和2年9月19日(土)・20日(日)
開催場所:オンライン研究会
参加人数:共同研究員12名+ゲストスピーカー4名+オブザーバー26名

報告:

古代・中世班のサブ研究会である応永・永享期文化論研究会の令和2年度第2回共同研究会は、令和2年9月19日(土)・20日(日)に行われた。新型コロナウイルス感染拡大への対応として、オンラインで開催した。

 

初日の午前中は、研究成果報告書(研究論集)の構成について意見交換を行った。

 

午後からは研究報告を行った。1本目の報告は川口成人(京都府立京都学・歴彩館)の「紀伊畠山氏と室町文化 ―伴雲軒紹高と畠山右馬頭家をめぐって―」だった。国文学研究では、三条西実隆と交流のある伴雲軒紹高という人物の存在が古くから知られていたが、彼の出自は未解明だった。川口報告は新出史料も活用しつつ、彼の実名や出自、先祖や子孫を確定した。室町文化の担い手に関する史料の多くは断片的であるため、著名な文化人であっても出自を明らかにすることが難しいが、本報告の手法を延用することで、さらなる事例の発掘が期待される。

 

2本目の報告は川本慎自(東京大学史料編纂所)の「夢窓派の応永期」であった。『三国伝記』には夢窓疎石に関わる説話「上総国極楽寺郷居住高階氏ノ女夢想ノ事」が収録されているが、禅宗史では十分に位置づけられていない。川本報告は当該説話の社会的背景として、『三国伝記』成立期の夢窓派と東国の関係を考察した。当時、京都の夢窓派は、指導者(春屋妙葩・龍湫周沢・義堂周信)を相次いで失ったことで求心力を失い、関東の夢窓派寺院・所領を掌握できていなかった。東国夢窓派に対する統制強化のために京都夢窓派が夢窓説話の形成に関与し、それが『三国伝記』当該説話の成立に影響を与えた可能性を、川本は示唆した。

 

3本目の報告はゲストスピーカーの三輪眞嗣(神奈川県立金沢文庫)の「応永・永享期の東大寺の惣寺と院家」であった。かつての寺社勢力論では、顕密系権門寺院の発展期は中世前期とみなされ、中世後期の研究は手薄であった。しかし近年は、室町期の顕密寺院が室町幕府に接近することで依然として大きな社会的影響力を行使したことに注目が集まっている。三輪報告は、室町幕府によって強訴という牙を抜かれた後も、惣寺の求心力によって東大寺の一体性が維持されたことを重視する。東大寺は応永・永享期には室町殿との良好な関係を背景に寺家経営を安定化させ、法会や祭礼、「蜂起」などの儀式も継続することができたという。三輪は尊勝院・東南院(・西室)を頂点とする院家の系列化も応永・永享期に遡る可能性を指摘し、南都独自の寺院社会が形成された画期として応永・永享期を評価する必要性を提起した。

 

2日目の午前中はゲストスピーカーの中本真人(新潟大学)の報告「北山惣社御神楽と綾小路信俊」であった。応永8年(1401)12月1日に足利義満の北山第に鎮座した北山惣社で開催された北山惣社御神楽については、「仙洞御願」に准じて行われたという『信俊卿記』の記述に関心が集中し、かつては「足利義満の皇位簒奪計画」説の有力な根拠とされていた。周知のように足利義満の北山山荘は西園寺氏の邸宅を引き継いだものであり、中本報告は義満の北山惣社を西園寺時代の西園寺惣社からの連続性で捉えた。義満の北山惣社御神楽は西園寺氏の祭祀を継承する形で始められたもので、義満自身が御神楽に参列することもなく、また義満没後も北山院康子を中心に続けられている。中本は『信俊卿記』の史料批判も行い、義満との関係が悪かった綾小路信俊が義満を必要以上に非難している点も踏まえるべきと指摘した。

 

2日目の午後は公開シンポジウム「『三国伝記』の宗教的環境」を開催した。『三国伝記』は中世説話集の掉尾を飾る大作と評価されており、室町時代の人々の宗教観、世界観を知る上でも重要な史料である。研究代表者である大橋直義の趣旨説明の後、研究報告が行われた。1本目の報告は高橋悠介(慶應義塾大学附属研究所斯道文庫)の「『三国伝記』の神祇関係説話小考」であった。高橋報告は、中国の高僧伝が日本で独自の変容を遂げて神身離脱説話として『三国伝記』に採り入れられていること、『三国伝記』「仏舎利勝利事」が『釈尊御舎利儀記』の影響を受けていることなどを指摘し、『三国伝記』の成立圏とされる湖東の天台文化圏における神仏習合思想の一端に迫った。

 

2本目の報告は柏原康人氏(大阪大谷大学非常勤講師)の「『三国伝記』における「霊地」考」であった。柏原報告は、『三国伝記』と同様に談義所周辺で形成されたと考えられる先行説話集である『神道集』と比較しつつ、『三国伝記』が「霊地」をどのように語っているかを明らかにした。『神道集』は「霊地」への参詣を勧奨しつつも、殺生祭神や触穢など参詣の障害となる禁忌の問題にも正面から向き合っているが、『三国伝記』は禁忌の問題を簡略化・形骸化して「霊地」の霊験を一方的に喧伝しており、現実から遊離した学僧の世界の空論になっていると柏原は指摘した。『三国伝記』の史料的性格の一側面を明らかにしたと言えよう。

 

最後に牧野和夫(実践女子大学名誉教授)の講演「『三国伝記』:琵琶湖東の宗教的環境の一端」が行われた。牧野は以前より『三国伝記』の成立に近江の柏原談義所(成菩提院)が深く関わっていたことを主張しているが、本報告では主に、柏原談義所を開いた貞舜とその師系の経歴を検討し、「記家」「談義所」という括りではなく「律僧」としての面に留意する必要があるとした。貞舜の母は美濃国多芸荘島田の万年一族の出身(「龍泉寺辺」)で、貞舜の父は陸奥・出羽・陸中の境に位置する「平元」を本貫とする出羽国平元氏出身であるという。平元は十和田湖の秋田県側にあたり、『三国伝記』に収録されている十和田湖伝承の情報源である可能性がある。また牧野は、貞舜と出羽国四天王寺僧の心俊との交流も指摘した。『三国伝記』収載の説話の地域的広がりを考える上で興味深い講演であった。

 

3つの報告の後、全体討論が行われ、『三国伝記』への律僧の関わりなどが活発に議論された。

 

2日間にわたり、日本の大衆文化を様々な角度から通時的・国際的に見直すことができ、実りある研究会であった。(呉座勇一)