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大衆文化研究アカデミックプログラムin パリ 第2日目

大衆文化研究アカデミックプログラムin パリ 第2日目

大衆文化研究アカデミックプログラムin パリ 第2日目

二日目(22日)は、日本の講師による基調講演と連続講座が催された。

 

基調講演

「大衆文化とチンドン屋(街頭の宣伝楽士)」

細川周平

場所:Université Paris Diderot Paris 7

参加者:約50名

近代日本音楽史の中からチンドン屋を話題として、大衆文化、大衆音楽について考えるヒントを提示する報告を行った。

チンドン屋は街頭で楽器、口上、旗、チラシ配りなどで音声宣伝を行うグループの俗称で、奇抜な衣装と音楽で人目を引き、主に下町の商店街で演奏してきた。楽器つき街頭宣伝自体は江戸時代にさかのぼり、ペリーの黒船(1853)以来、軍楽隊が近代軍制の一部として整備された。1880年代より民間の楽隊が結成され、映画館やサーカス、街頭宣伝に雇用された。その一部は賑やかなことからジンタの愛称で知られ、昭和初頭(1920年代末)には、三味線、鳴り物が加わり、曲目やサウンドは一段と通俗化して、チンドン屋の愛称で知られた。

ながらくチンドン屋は最低の職業であるかのように軽蔑されてきたが、1980年代末より大学卒や音楽家が加わり、評価が変わってきた。今では「昭和ノスタルジー」を表すものとして公認されている。音楽、宣伝、街頭、それに文化融合などさまざまな観点から、チンドン屋は大衆文化、大衆音楽を考える上で重要な研究対象となることを指摘した。

連続講座①

「1960年代における演歌の発見/発明」

輪島裕介

場所:Université Paris Diderot Paris 7

参加者:約70名

一般に日本的・伝統的とみなされる大衆歌謡ジャンルである「演歌」の成立過程について、1960年代以降の新左翼運動とも呼応する対抗文化的思潮と、文化産業の構造転換という2つの文脈が交差することに注目した講義を行った。

演歌は、1970年前後に明確な「ジャンル」として認識されるようになる、いわば「創られた伝統」であった。その音楽的な内実は、1930年代から1960年代前半頃までのレコード会社製の大衆歌曲、つまり「流行歌」ないし「歌謡曲」の主流的様式にあった。

「演歌」という呼称は、もともと自由民権運動の「演説歌」を指したが、19世紀末から20世紀初頭に街頭で世相風刺的な歌を演唱する行為、およびそれを行う人(「演歌師」)を指した。しかし、1930年代以降、レコード会社製の大衆歌謡の人気によって周縁化され、盛り場で流行歌を演奏する「流し」の芸人、夜の世界のアウトロー的な内容を歌うものを意味するようになった。このように、歴史的には明らかに矛盾し錯綜した記号内容と記号表現の結合が可能になった背景には、一方には、1960年代以降の音楽産業の構造変化によってより西洋的で若者向けの音楽が主流化し、旧来の主流的歌謡スタイルがおしなべて「古い」ものと感じられるようになったことがあり、他方には、夜の盛り場で「流し」が歌うような古臭く低俗な流行歌こそが、抑圧された民衆の魂の真正な表現である、という思潮の勃興があった。それは、1950年代までの大衆(民衆/国民)音楽を巡る議論の基調を成してきた、西洋近代的な音楽の啓蒙と普及を通じて大衆の音楽レヴェルを引き上げようとする方針に対する挑戦であり、より具体的には、旧左翼の音楽運動に対する新左翼からの対抗でもあった。

しかし、皮肉なことに、こうした新左翼的ポピュリズムは、近過去の慣習的な音楽スタイルと硬直的な生産システムを、「伝統的」と誤認させる役割も果たした。講義では、1960年代以後の大衆文化及び大衆文化を語る仕方をめぐる広範な文脈にも留意しながら、演歌ジャンルを文化史的に位置づけた。

連続講座②

「アニメはいかに「発見」されたか? 大衆文化からクールジャパンへ」

佐野明子

場所:INALCO

参加人数:約80名

日本におけるアニメがどのように展開していくのか。それは、19世紀末に海外の短編アニメが、映画や演芸とともに上映されたことに始まり、日本の大衆に親しまれてきた。アニメは日本においては「大衆文化」として出発した。

1930年代前半になると、映画に対して「文化」という言葉が映画評論家によって使われ始め、1939年の映画法により「文化映画」というプロパガンダ目的の記録映画の強制上映が定められた。アニメも「文化映画」として制作され、日本初の長編アニメ『桃太郎 海の神兵』(1945)も「国策映画」であった。

その一方で、映画評論家も一般の愛好家もアニメに注目し、『映画評論』1932年8月号には映画雑誌初のアニメ特集が組まれた(メインは外国製アニメ)。アマチュア映画・アニメ作家による同人誌も、1930年代後半に発行されていた。

戦後、鶴見俊輔や福田定良によって「大衆文化研究」がひとつの潮流を形成するなかで、アニメファンによる研究活動も、1950年の『白雪姫』(1937)の日本初公開を契機に開始される。特に、ディズニー長編は大衆に歓迎され、配給権を握る大映が「ディズニー・クラブ」(全国規模の初のアニメファンクラブ)を設立し、ディズニーファンが全国的なネットワークを活用した同人活動を展開していった。

高度経済成長期に消費者としての青年層が注目されると、青年たちが『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』(1978)を観るために映画館に並ぶ姿がメディアに取り上げられ、「青年向けのアニメ」が発見された。さらに『AKIRA』(1988)を嚆矢として日本アニメの海外需要が高まると、「クールジャパン」政策の一環として「日本固有の文化としてのアニメ」が喧伝された。

その中で、アニメの起源を絵巻物とみなす見解が現在の教科書に導入されている。しかし、アニメや映画の起源を絵巻物に見出す言説は、第二次世界大戦期にも認められるものであった。日本のアニメは海外アニメを参照することから始めた「雑種的」な文化だが、アニメ=絵巻物起源説が主張される背景には、ナショナリズムに奉仕するための文化利用が今日も繰り返されていることを表している。