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古代・中世班 H30年度第5回共同研究会・近世班第2回研究会レポート

古代・中世班 H30年度第5回共同研究会・近世班第2回研究会レポート
【開催日時】平成30年12月22日(土)13:00-18:00

【場所】:国際日本文化研究センター第6共同研究室

【出席者】22名(15名+オブザーバー7名)

 

大衆文化プロジェクト古代・中世班共同研究「投企する古典性―視覚/大衆/現代」(代表:荒木浩)平成30年度第5回研究会と近世班(代表:小松和彦)第2回研究会の合同開催というかたちで行った。

 

・開会の辞 小松和彦

・趣旨説明 伊藤慎吾

・報告1「江戸文学・文化の評価―三田村鳶魚を中心に―」(報告者:棚橋正博氏)

・報告2「好事家の冠したジャンル名称―明治期草双紙を巡って―」(報告者:佐々木亨氏)

 

近代における国文学の受容(大衆文化として、また研究として)の問題を考える上で、戦前の古代・中世文学と近世文学との研究を取りまく環境の違いに注目し、その実相に理解を深めることが今回の主たる目的であった。

近世以来の国学の流れで記紀や王朝物語、歴史物語の文献学的、思想的研究は盛んであり、またドイツ文献学や神話学の影響も明治後半から顕著になってきた。大学に所属する研究者は古代から中世にかけての大作品・大作家を中心に取り上げ、学界が盛んになっていく。

ところが近世文学は学問対象としては未成熟であった。研究の多くは在野のいわゆる趣味人・好事家の手になるものであった。

とはいえ、それらの成果は学術性が低いかといえば、決してそうではない。今日の近世文学研究の礎を築いた人々が多くそこにいたのである。そうした在野研究者の一人に三田村鳶魚(1870-1952)がいる。彼は自宅で近世文学の輪講を行い、これを雑誌『江戸生活研究 彗星』に連載した。参加者は林若樹・山中共古・三村竹清・水谷不倒・小寺融吉・忍頂寺務・木村仙秀・笹野堅・森銑三・柴田宵曲(主に書記担当)ら錚々たる面々であり、また民俗学者南方熊楠など地方在住の有識者の寄稿もあった。

こうした戦前の近世文学を取り巻く大衆文化・人文学研究について議論することが、同時に当時の古代中世文学を取り巻く状況を理解する手掛かりにもなるだろう。

そこで今回の共同研究会では近世文学研究者であると同時に近代以降の近世文学研究にも造詣の深い二人の研究者を招き、お話しして頂いた。

 

■棚橋正博氏(帝京大学元教授)による報告「江戸文学・文化の評価―三田村鳶魚を中心に―」は三田村鳶魚の業績について、ご自身の経験も交え、詳細に論じたものである。

まず数多くの著作を著した中でも『未刊随筆百種』の利用価値の高さを評価する。棚橋氏自身、水道橋にあった青蛙房で鳶魚の著作を買い、影響を受けたという。ただ、鳶魚の著作の問題点は「ネタを明かさない」ということであった。面白いことを書くにも関わらず、その出典を明らかにしない。この点に鳶魚最大の欠点があるという。しかし、鳶魚は根拠のないことを述べない態度であるから、今後、鳶魚の著述を見直し、出典を解明していく必要があるとの見解を示された。

次いで、鳶魚の生きた時代における近世について論じられた。明治も25年頃になると、江戸を知らない人が江戸のことを書くようになる。そうした中で、かつて江戸幕府の役人などを勤めた古老たちから話を聴いて記録した『旧事諮問録』が生まれ、近世を研究する動きが現れる。

文学関係では博文館から刊行された帝国文庫が大部なものであり、かつてはこれを資料として使う研究者もいた。しかしこれは原本を職工に渡して活字化したので、粗悪な本文となっている。発表者自身は、その質の悪さを知り、研究には原典に当たることが重要であることを知ったという。

昭和初期にくだると、鳶魚と山口剛が活躍するようになった。山口剛は西鶴を復活させた人物で、日本名著全集『西鶴名作集(上・下)』等を編集した。西鶴研究の先鞭を付けたと言える。この時期、山口剛はNHKのラジオ放送で江戸文学について語り、鳶魚は出版を通して江戸文学を大衆に広め、支持を得たのだった。こうして大衆や好事家を巻き込むような流れが生まれた。鳶魚が主役であったといってよいという。

ただ、聞書には不十分な点もあり、精査すると誤りがあることを、滝亭鯉丈や花火の玉屋・鍵屋の例を挙げながら指摘した。

このほか、吉原の起源について詳しく論じられた。

 

■佐々木亨氏(徳島文理大学教授)による報告「好事家の冠したジャンル名称―明治期草双紙を巡って―」は明治期の草双紙とそれに関わる好事家たちについて、特に鳶魚を中心に据え、詳細な文献資料をもとに論じたものである。

近世の合巻が明治に入り、新しいスタイルを採るようになった。絵画中心であったものが、漢字振り仮名付きの読み物となったのである。興津要はこれを「明治式合巻」と呼ぶ。また、木版から活版の合巻も生まれることになった。これを「東京式合巻」と呼ぶ。この「明治式」「東京式」なる名称がどのように付けられることになったのか。この問題を戦前の近世文学研究と関連させて論じられた。

この新しいジャンルについて大正後期から精力的に調査研究していたのが三田村鳶魚であった。また石川巌も明治初期の戯作に関心をもっており、これに言及している。その頃から明治初期の戯作に関連する雑誌が幾つか出版されるようになる。大正13年創刊の『書物往来』や翌年創刊の明治文化研究会の機関誌『新旧時代』、大正14年の『早稲田文学』「明治文学号」などである。こうした幕末明治の戯作に対する関心の高まりの中で、鳶魚は積極的に合巻の新しいスタイルに注目し、旧時代の合巻と区別する名称を与えるに至ったのである。この時期の鳶魚の動向について詳細に資料を提示。そこからは、明治文化に貢献した古老を訪問して聞書きしたり、それぞれが役割分担して研究を行ったりしたことが知られるという。

こうした在野の人々が、明治文化に及ぶ近世文化に対する民間の関心を高めていったという。

 

質疑では、三田村鳶魚の旧蔵書や資料のその後について、吉原の問題など多岐にわたり議論された。

(伊藤慎吾)