令和2年度 応永・永享期文化論研究会レポート③
開催日時:令和2年12月13日(日)
開催場所:オンライン研究会
参加人数:共同研究員14名+ゲストスピーカー1名+オブザーバー2名
報告:
古代・中世班のサブ研究会である応永・永享期文化論研究会の令和2年度第3回共同研究会は、令和2年12月13日(日)に行われた。新型コロナウイルス感染拡大への対応として、オンラインで開催した。
初日の午前中は、研究成果報告書(研究論集)の構成について意見交換を行った。
午後からは研究報告を行った。1本目の報告は貫井裕恵(神奈川県立金沢文庫)「室町期における東寺と東寺執行家について」だった。東寺研究においては、「東寺百合文書」の検討を中心に、供僧組織の解明が進められてきた。これに対して貫井報告は『阿刀家伝世資料』文書・典籍など執行家伝来史料を書誌学的に検討し、永享期ごろに東寺執行家の職務が拡充され史料の作成・編纂・書写を盛んに行うようになったことを指摘した。東寺の執行家については、寺家における重要性に比して十分にその職務が解明されておらず、供僧との関係も含め、今後の研究の進展が期待される。
2本目は大河内智之(和歌山県立博物館)の報告「粉河寺式千手観音像図像の成立と展開―縁起の図像化―」であった。南北朝~室町期を中心に制作された粉河寺式千手観音図像は左肩に紅袴を畳んでかけている姿を1つの特徴とするが、その由来が明確でなかった。国宝本「粉河寺縁起」には河内国の長者の娘が病気治癒のお礼に紅袴を献ずる話が見えるので、この紅袴と考えられてきた。しかし、国宝本では右脇手に紅袴をぶら下げている千手観音の絵が描かれていて、別物と言わざるを得ない。また粉河寺式千手観音像は右手一番下の施無畏手に鞘付帯を持っているのに対し(平安時代前期成立の根本縁起である粉河寺縁起、通称「漢文縁起」に従ったもの)、国宝本では千手観音の左手最下段の脇手(羂索手)に持たせており、この点でも異なる図像と言える。
大河内によれば、粉河寺式千手観音像の紅袴は、「粉河寺観音霊験記」(通称「和文縁起」、鎌倉時代前期に成立か)に見える、在原業平の妻が珍しいお菓子をもらったお礼に童(正体は粉川観音)の肩に紅袴をかけてあげたという霊験譚に由来するという。先行研究は、和文縁起の業平説話は国宝本の紅袴を受けて創作されたと捉えた。だが大河内は、業平説話が先行して平安時代後期に成立し、国宝本に影響を与えたと主張した。国宝本は粉河寺に伝わった縁起をかなり大胆に改編しているため、寺家側主導の制作とは考えにくく、後白河法皇の関与が想定できると結論づけた。
3本目の報告はゲストスピーカーの伊藤伸江(愛知県立大学)による「正徹周辺の学芸と和歌活動―応永二十年代から永享年間を中心に―」であった。伊藤は正徹の応永期・永享期にかけての文化活動を明らかにすべく、正徹周辺の文化人である駿河守護今川範政に注目する。今川範政は今川了俊の兄範氏の孫である。範政の父である泰範は了俊と政治的に対立したことで知られるが、範政は了俊の歌学書・源氏物語注釈書に注をつけるなど、了俊の和歌・学芸に大きな影響を受けていた。このため、同じく了俊の和歌・学芸に影響を受けた正徹と親しく、範政は「正徹百首」を絶賛している。範政による正徹百首の評は、歌学の知識にもとづく批評というよりも、称賛と共感の言辞となっており、特殊な評である。そうした評が付されたのは、当時冷泉家が将軍に忌避され、冷泉派歌人も不遇な立場に置かれたことに起因すると指摘した。
日本の大衆文化を様々な角度から通時的・国際的に見直すことができ、実りある研究会であった。