ページを選択

応永永享期文化論研究会レポート②

研究代表者:大橋直義 呉座勇一
開催日時:令和元年9月28日(土)・29日(日)
開催場所:東京大学福武ホール地下1階 史料編纂所大会議室
参加人数:約50名(共同研究員含む)

古代・中世班のサブ研究会である応永・永享期文化論研究会の令和元年第2回共同研究会は、令和元年9月28日(土)・29日(日)の2日間にわたって行われた(所外開催)。

28日の午前中は、研究成果論集の刊行に向けての編集会議を行った。午後からは公開シンポジウム「足利義持とその時代―歴史・文化史・文学史―」を開催した。最初に研究代表者である大橋直義(和歌山大学)が趣旨説明を行った。一般に室町文化の原型は、室町幕府3代将軍足利義満の時代に築かれたと思われているが、近年の中世文学・中世史研究ではこのような「北山文化論」は相対化されつつある。本シンポジウムでは4代将軍義持の時代に焦点を当て、応永期文化の画期性を学際的な立場から検討しようとするものである。

1本目の報告は太田亨(愛媛大学)の「日本中世禅林における中国文学受容について―応永年間を中心に―」だった。太田は応永・永享期の禅林文化の特徴として、禅僧間で一般的詩文を認める風潮が生じたこと、それによる講義活動・抄物作成が盛んに行われるようになったこと、惟肖得巌と江西龍派を中心に文筆活動が積極的に行われたことを指摘した。その理由として、応永・永享期には、義持の庇護のもと「禅熟すれば詩も熟す」という発想が生じたためと結論した。

2本目の報告は五月女肇志(二松学舎大学)の「応永年間の今川了俊―歌論書を中心に―」であった。勅撰和歌集が編まれなかった応永期は、和歌史では必ずしも重視されてこなかったが、五月女は、今川了俊が政治的に失脚して隠居した義持の時代に数々の歌論書・歌学書を著していることに注目した。御子左家嫡流の二条家が断絶した時期に了俊が冷泉家擁護の姿勢を強く打ち出したことの重要性を指摘し、また了俊の歌論が正徹に与えた影響を論じ、和歌史における応永期の重要性を再提起した。

3本目の報告は石原比伊呂(聖心女子大学)の「足利将軍家の規範先例―「義満型」と「義持型」なる二類型と応永という時代―」だった。足利将軍家は義満の先例を「佳例」と捉え、後代に至るまでこれを規範としたと一般に考えられてきた。これに対して石原は「足利家官位記」を主な素材としつつ、足利家の規範先例に関する意識を再検討した。その結果、「義満先例」が採用されなかった事例、「義持先例」が採用された事例などを発掘し、複雑な要素が錯綜する中で足利家の佳例認識が歴史的に形成されていたことを明らかにした。

 

2日目は、午前中に共同研究員限定の研究会を行った。猪瀬千尋(名古屋大学大学院文学研究科附属人類文化遺産テクスト学研究センター研究員)が「開帳の成立」という報告を行った。猪瀬は寺院が本尊秘仏などを一般に公開する行為を「開帳」と呼ぶようになるのが応永・永享期であることを解明し、多くの人が仏像など寺宝を拝観するようになったことが絵巻の描写が写実的になっていくことの背景である可能性を指摘した。

午後には公開シンポジウム「足利義持とその時代―歴史・文化史・文学史―」を再開した。

臼井和樹(宮内庁書陵部)の報告「元号「応永」考」は、足利義持時代の元号「応永」が中世の改元の中でどのように位置づけられるかを考察したものであった。13~15世紀の元号案に見られる漢籍の分析より解き起こし、応永改元定の経緯を詳細に論じた。明朝に憧れる足利義満は明の元号「洪武」に倣って「明徳」から「洪徳」への改元を図ったが、公家たちの反発により「応永」になった。しかし以後、義満も義持も「応永」からの改元を行わなかった。臼井は、明が採用した「一世一元の制」の影響で、「応永」が30年以上の長きにわたり続いた可能性を指摘した。

続いて中嶋謙昌(灘中・高等学校)が「応永三十年前後の能と演者」という報告を行った。一般には、能楽は義満の時代(北山時代)に世阿弥によって完成されたというイメージがあるが、中嶋はこれを相対化すべく、応永後期における世阿弥・増阿弥関連の史料を再整理した。そして、増阿弥に対する義持の後援が特別なものであり、世阿弥が同時代において必ずしも能の第一人者でなかったことを確認した。さらに応永後期~永享期の作風変化の一例として、非芸能者の女性役が男装で舞う演出を取り上げ、能『松風』の演出が『井筒』以後に改められた可能性を論じた。

最後の報告は、山本啓介(青山学院大学准教授)の「足利義持文化圏の和歌・連歌」だった。山本は、義持が頓正寺法楽和歌に関与していた可能性、耕雲・正徹らの歌人達との関わり、内裏・仙洞における晴の御会において果たした諸役などの分析を行った。以上を通じて、義持が相応に高度な歌学知識と関心を有し、整った実作も残していること、同時代において公武の和歌活動が活性化していたこと、しかし義持本人には和歌・連歌を積極的に主導する傾向は希薄であることを指摘し、義持とその時代の和歌・連歌の様相を概観した。

総合討論では、義満期から義持期を経て義教期に至る、室町文化の展開についてフロアからの意見も交えて議論を行った。また耕雲(子晋明魏)など、和漢の文芸に通暁し、異なるジャンルの文化をつなぐ人物を室町文化のキーパーソンと捉え、多角的に議論した。