古代・中世班H30年度共同研究会④レポート
研究代表者:荒木浩
開催日時:平成30年11月17日(土)・18日(日)
開催場所:国際日本文化研究センター第1共同研究室
出席者:21名+オブザーバー20名
大衆文化プロジェクト古代・中世班の共同研究「投企する古典性―視覚/大衆/現代」の第4回(特別会議)として、「投企する太平記―歴史・物語・思想」と題したシンポジウムを開催した。
まず本シンポジウムの企画理由を説明する。『太平記』は40年に及ぶ南北朝戦乱を40巻かけて描いた大長編の軍記物語で、『平家物語』と並ぶ中世文学の代表的作品である。南北朝史全体を叙述した最古の作品であるため、水戸藩が『大日本史』を編纂した際にも同作に大きく依拠した。しかし明治時代の歴史家である久米邦武の「太平記は史学に益なし」という発言に象徴されるように、近代歴史学は『太平記』などの軍記類の史料的価値を疑問視し、歴史研究の材料としてなるべく使わないよう戒めた。この結果、現在でも中世史学は『太平記』にあまり関心を払わず、国文学における『太平記』研究の動向を十分に把握していない。一方、国文学の側も急速に進展する南北朝史研究(特に政治史)の成果を必ずしも吸収できていないように感じられる。そこで『太平記』をめぐって歴史学と国文学が対話するきっかけを作るべく、「投企」をキーワードに本シンポジウムを企画した。
『太平記』は先行する国内外の作品をいかに咀嚼して生成したのか。『太平記』の物語構造や世界観、歴史認識、知識体系などが、近世・近代・現代の文芸作品や歴史叙述、思想などにいかに影響を与えたのか。さらには『太平記』が注釈本やパロディ作品も含めてどのように享受されていったのか。このような『太平記』世界の歴史的展開に焦点を合わせて、歴史学研究、文学研究、思想史研究を横断する5人のゲストスピーカーを招いてシンポジウムを行った。
シンポジウム1日目の冒頭、呉座勇一(日文研)がシンポジウムの趣旨を説明した。『太平記』が中世において「大衆文化」だったと言い得るかについては、議論が分かれるところである。しかし『太平記』は近世においては慶長7年(1602)の古活字版以来、多数の刊本が出版されたベストセラーであり、原典のみならず『参考太平記』(1689)などの注釈書や「太平記読み」といった講釈、浄瑠璃・歌舞伎などの「太平記物」を通して人々に浸透した。『太平記』は江戸文学、近世文学としての顔を持ち、出版文化の隆盛を背景に『太平記』の物語世界が多様なメディアで展開したのである。
また江戸時代には『後太平記』(1677)、『続太平記』(1686)、『陰徳太平記』(1695)、『朝鮮太平記』(1705)、『慶安太平記』(1870)など、「太平記」を冠した作品(軍書・実録・歌舞伎など)が次々と登場した。さらに『仮名手本忠臣蔵』(浄瑠璃1748初演)に代表されるように、『太平記』の人間関係や設定を借りた作品も数多く作られ、仮名草子『魚太平記』『草木太平記』などのパロディ作品(異類合戦物)も出現した。『太平記』の物語構造や世界観は、大衆文化の1つの型になり、現代にまで影響を与えている。こうした文化事象を総体として捉えた場合、『太平記』は大衆文芸の源流と言え、大衆文化プロジェクトの研究対象として極めて重要であると考える。
初日1本目の報告、和田琢磨(早稲田大学)の「『太平記』と武家―南北朝・室町時代を中心に―」は、近年国文学で急速に進展している『太平記』諸本論の成果と課題を総括したものである。従来の研究では、『太平記』諸本における合戦場面の叙述の揺れ(本文異同)については、諸大名が自身・先祖の戦功を『太平記』に書き入れるよう個々に要求したため、と解釈されてきた。この考えは、『太平記』を「室町幕府監修あるいは公認の歴史書、いわば南北朝の動乱に関する正史」と捉える通説と密接に結びついていた。しかし上記の説の史料的根拠は、『太平記』に先祖の武功が記されていないので書き足して欲しいと嘆く今川了俊の『難太平記』(1402)しか存在しない、と和田は指摘する。和田は『太平記』諸本の中で最も特異な伝本である天正本や現存最古の伝本である永和本の再検討を通じて、功名書き入れ要求―『太平記』正史説に疑問を呈し、『太平記』の生成過程・異本派生の過程を再考すべきと主張した。質疑では、常に本文が流動する中世軍記と、出版によってテキストが固定される近世軍記との違いについての議論などが行われた。
2本目の報告、谷口雄太(立教大学兼任講師)の「「太平記史観」をとらえる」は、『太平記』が提供した歴史認識の枠組みが現代に至るまで南北朝史研究を規定してきたことを論じた。谷口がこれまで進めてきた足利氏研究を題材に、足利尊氏と新田義貞が武家の棟梁の座をめぐって争ったという『太平記』の構図が、新田氏を足利氏と並ぶ源氏嫡流と捉える歴史認識を生み出し、新田氏は足利一門であるという歴史的事実の発見を妨げてきたと説く。その上で、『太平記』の史料としての活用法を自覚的に追究せず、結果的に『太平記』の歴史観に絡め取られてきた中世史学界の問題を鋭く批判した。質疑では、仏教思想・無常観というひとつの思想・構想で貫かれた『平家物語』と異なり『太平記』には一貫した歴史観が見出せないにもかかわらず、「太平記史観」という概念を設定することは適切かとの意見が提出され、白熱した討論が行われた。
3本目の報告、井上泰至(防衛大学校)の「『太平記』の近世的派生/転生―後醍醐・楠像を軸に―」は、『太平記』原典で描かれた後醍醐天皇と楠木正成の関係、両者の人物像が近世を通じてどのように変容していったかを、軍書・和歌・漢詩文などの分析を通じて明らかにした。徳川光圀が湊川に建立した楠木正成の墓碑(1692、賛文は明朝の遺臣である朱舜水が起草)や、楠木一族に焦点を当てた近世軍書『南朝太平記』(1709)は、不徳の君である後醍醐に対し死をもって諫める中国の士大夫的な正成像を描いた。だが国学や後期水戸学においては、主君のためなら命を投げ出すことも厭わない正成の誠忠が強調されるようになり、幕末の尊皇攘夷運動の過激化、さらには戦時中の玉砕・特攻へとつながっていくと論じた。また『太平記』から派生した近世の通俗史書では、後醍醐周辺の「君側の奸」の専横を強調することで(結果的に)後醍醐の不徳性を緩和する傾向が見られると指摘した。質疑では、オブザーバーの兵藤裕己が、藤田幽谷が『太平記』原典の後醍醐批判を封印したことに言及し、後期水戸学が天皇を名分論の対象から外して一切の批判を禁じたことが近代天皇制に暗い影を落としたと述べた。
4本目の報告、伊藤慎吾(日文研客員准教授)の「妖怪資料としての『太平記』受容―「広有射怪鳥事」を中心に―」は、『太平記』に登場する妖怪記事が後世の大衆文化に与えた影響を考察したものである。『太平記』巻十二の「広有射怪鳥事」に登場する「いつまで、いつまで」と鳴く怪鳥は、江戸時代の浮世絵師である鳥山石燕の妖怪画集『今昔画図続百鬼』(1779)で「以津真天(いつまで)」と命名された。さらに佐藤有文『日本妖怪図鑑』(1972)では、餓死者の死体を食いあさり「いつまで死人をほうっておくのだ!」と遺族を責めるという性格が付与され、現代の妖怪ブームの中でマンガ・アニメ・ライトノベル・ゲームなどに頻出するようになった。一方で、もともとの出典である『太平記』との関連性は失われつつあることに触れ、作り手と受け手の集合知という基盤に立脚しない点で現代的な大衆文化の潮流に乗っていると説く。質疑では、餓死者の死体を食うという設定を最初に導入したのは水木しげるであるとの指摘があった。また、『太平記』では建武政権の崩壊を予言する役割を担った怪鳥が、どうして現代では餓死者と関連づけられるようになったかという質問が出され、活発な議論が交わされた。
シンポジウム2日目には亀田俊和(台湾大学)が「『太平記』に見る中国故事の引用」という報告を行った。『太平記』の特色として、中国故事の大量の引用が挙げられる。国文学では古くから注目され、研究が積み重ねられてきた。しかし、出典はどの作品かという点に関心が集中し、引用の意図などの考察は少ないと亀田は批判する。亀田報告は『太平記』において本筋の話を遮ってまで延々と中国故事を紹介する長文記事を「大規模引用」と名付け、その分布傾向や引用方針の変化を分析した。そして大規模引用、特に政道批判型の大規模引用が巻を追うごとに増加する傾向があると指摘した。さらに大規模引用が観応の擾乱を叙述する巻でピークに達して、日本の南北朝史との対応関係も複雑でひねったものになることに着目し、一見無関係に見える故事を引用するという“道草”によって読者の興味関心を引くという逆説的な演出があったのではないかと論じた。質疑では、中世の日本人がどのようにして漢籍を学んだかという問題も視野に入れる必要があり、幼学書の研究も参照すべきではないかとの意見が提出された。他にも、混沌とした『太平記』の叙述に対して予定調和を排したものとして積極的・肯定的な評価を与えることはできないかなど、興味深い意見が寄せられた。
続いて、小秋元段(法政大学)が5本の報告に対してコメントを寄せ、本シンポジウムの柱は「太平記史観」からの超克と、『太平記』の大衆化の2点であったと総括した。前者に関しては、『太平記』が複雑難解な南北朝史を整序して語るために、新田・足利互角の構図などの虚像を創出したのは確かだが、それが同時代において説得力をもって受け入れられたことの意味は小さくないと指摘し、歴史学の側からもこの問題に積極的に取り組んで欲しいと発言した。後者に関しては、『太平記』は原典にせよ、江戸時代の太平記講釈の種本である『太平記評判秘伝理尽鈔』にせよ、全巻を通読した人は少なく、常に「部分」が切り取られて享受されてきたと指摘し、作り手の意図とは別に受け手による多様な解釈・読み替えによって『太平記』世界が展開したことに留意する必要があると述べた。
最後に、5本の報告とコメントを踏まえて、総合討議が行われた。『太平記』抜きで南北朝時代史を叙述することは可能か、『太平記』的な歴史叙述と異なる通史叙述はあり得るのか、古典文学を骨董品にせず若い世代に魅力を伝えていくにはどうしたら良いかなど、狭義の『太平記』研究に留まらない、大衆文化プロジェクトを進めていく上で示唆に富む今日的な課題が多く提起され、極めて有意義な2日間だった。(文・呉座勇一)