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大衆文化研究アカデミックプログラムin パリ 第3日目

大衆文化研究アカデミックプログラムin パリ 第3日目

大衆文化研究アカデミックプログラムin パリ 第3日目

三日目(23日)は、昨日に引き続き日本の講師による連続講座が催された。

 

「おみくじから見る日本文化―託宣としての詩歌―」

平野多恵

場所:Université Paris Diderot Paris 7

参加者:57名

神社仏閣に参拝して「おみくじ」を引き、一年の運勢を占う行為が、日本のお正月の風物詩となっている。現在、おみくじは気軽な運試しとして広まっているが、本来は神仏のお告げ(託宣)をいただく神聖な占いであった。

お告げがどのような形式で記述されているかで現代のおみくじを分けると、漢詩・和歌・その他に三分類できる。漢詩のおみくじは中国由来の観音菩薩のお告げで、15世紀半ばまでに日本に伝来した。17世紀後半以降、漢詩みくじが書物として盛んに出版されて流行し、現在でも仏教寺院で継承されている。

和歌のおみくじは日本独自のもので、神社で主に用いられている。そのルーツをたどると、スサノオノミコトが和歌をはじめて詠んだという伝承に至る。11世紀頃から神々が和歌でお告げを示す託宣歌が増え、12世紀後半には巫者を介して神々が和歌でお告げを伝える「歌占」が行われた。さらに特定の歌から一首を選ぶ和歌占いも生まれていった。

18世紀半ばには、漢詩みくじ本の影響を受け、和歌占いもみくじ本として出版されるようになった。この頃は神仏習合の考え方が広まっていることを背景に、和歌みくじ本にも仏教の影響が、神社でも仏教系の漢詩みくじが多く用いられていた。

しかし、明治に入ると、明治維新による神仏分離令の影響で様相が一変する。神社では、神の託宣を意識した和歌みくじが新たに採用され、仏教系の漢詩みくじは用いられなくなっていった。こうして、仏教寺院では漢詩みくじ、神社では和歌みくじという現在のような棲み分けができていく。こうした経緯から、寺院の漢詩みくじが江戸時代以来の伝統を継承して変化が少ないのに比べて、神社のおみくじは現在に至るまで変化が大きく多様性を持つようになる。

おみくじは、神仏の託宣という「聖」と、人々の願いという「俗」の境界に存在している。それゆえに、人間と神仏のかかわりの変遷を読みとることができる。

 

「河童から見た日本近世の知の循環」

木場貴俊

場所:INALCO

参加者:54名

河童は、水にまつわる「妖怪」として現代日本でもメジャーな存在である。その河童の歴史的変化を、大衆(民衆)文化と学問の関係から見るものである。

河童はもともと獣として理解されていた。『日葡辞書』には、「猿に似た一種の獣で、川の中に棲み、人間と同じような手足をもっているもの」と紹介したように、当時河童は珍しい動物として理解されていた。17世紀になると、豊後国の名物として広く知られていた。

18世紀前後には、本草学など河童を学問的に扱う動向も見られるようになる。本草学では、河童を中国の水虎と封のいずれと結びつけるのか、あるいは各地の河童に似た水怪の方言を収集するようになった。また、儒学では古賀侗庵(こがとうあん)が、河童に関する資料集『水虎考略』を編み、門人や友人から多種多様な河童に関する情報を集め、図とともに紹介し論じた。『水虎考略』は出版されなかったが、弟子や知人に貸借されて多くの写本を生み出し、さらには一枚絵の商品にまでなった。

近代以降になると、柳田国男は水神の零落したものなど学問で扱われ、また娯楽においては漫画やアニメのキャラクター、さらには町おこしのご当地キャラクターなど多彩な面を見せている。

このように学問と娯楽(民衆文化)を循環するなかで、多様な河童像が生み出されていく。