【報告】2018年大衆文化研究プロジェクト総合国際シンポジウム
018年10月27、28日に、京都リサーチパークにて、大衆文化研究プロジェクト総合国際シンポジウム「メディアミックスする大衆文化」が、第3回東アジア日本研究者協議会国際学術大会分科会として開催された。
まず、劉建輝(国際日本文化研究センター・副所長)より趣旨説明があった。このシンポジウムでは、広く東アジアの研究者にご参加いただき、各研究班より2名の発表者、1名の総合討論報告者に登壇いただくことで、通時的・国際的な視点や各研究班との連携を意識しながら、日本大衆文化研究を通じての「新しい日本像」の提言について議論する機会としたい。大衆文化は、時代を超え、国境を超え流動的に変化し、多様な媒体が活用されるといった特徴を見いだすことができる。このシンポジウムを通して、本プロジェクトの目標を各研究班を横断しながら具体的に検討することで、プロジェクト開始3年目に当たる中間自己評価の総括と課題を見出したい、と述べられた。
◆基調講演 小松和彦(国際日本文化研究センター・所長)◆
「大衆文化研究をめぐる諸課題」
大衆文化研究には諸問題が山積みであることを前提としたうえで、江戸時代における大衆(庶民)文化の4つの伝承母体の関係図(口承、書承、芸能・儀礼・遊芸、絵画・造形)を念頭に置きながら、江戸時代における「メディアミックス」の萌芽として歌川国芳《安達原一ツ家之図》(1856年、日文研所蔵)をめぐる事例が説明された。そこには、浮世絵師や見世物興行師らの相互のネットワーク、浮世絵に描かれる多種の物語の由来、様々な媒体へと広がる表現を見いだすことができる。江戸時代の大衆文化研究には、この4つの伝承母体に関連する領域を軽やかに行来するような学際的なアプローチが必要ではないかと結ばれた。司会からは、この「メディアミックス」の萌芽の事例から、特に、広範な消費者を意識したメディアの生産に注目することで、前近代と近代を繋ぐ糸が発見できるのではないか、との意見が寄せられた。
◆研究発表セッション1◆
司会:荒木浩(国際日本文化研究センター・副所長/古代・中世班代表)
- ケラー・キンブロー(コロラド大学・教授/国際日本文化研究センター・外国人研究員/古代・中世班)
「語り物文芸から武家物小説へ―幸若舞曲とジャンル・フィクションの誕生」
中世の語り物文芸が17世紀初頭に近世文学ジャンルとして形付けられた過程の検討を目的に、初期幸若舞曲の版本を糸口に、特に、幸若舞曲の『満仲』『景清』『入鹿』等、そして古浄瑠璃の『かまた』『高館』や『酒典童子若壮』を例として、書肆が伝承文学をどのように新しい出版メディアに当てはめたか、古活字や製版に絵画イメージを取り込んだこと等が検討された。ツヴェタン・トドロフのジャンル、ジャンル・フィクションの学説に照らし合わせながら、寛永9年ごろの舞の本とその典拠本が後の近世武家物小説と古浄瑠璃正本の原型(トドロフの「期待の展望」〔“horizons of expectations”〕)を築いたと主張された。発表では、時に残虐な場面が登場する多彩な挿絵が紹介され、江戸初期におけるパルプ・フィクション群は微妙な違いをもち、様々な読者にアピールされただろうことが指摘された。質疑応答では、奈良絵本と絵入り版本における残虐性の捉え方の違いについて質問が寄せられた。
- 木場貴俊(国際日本文化研究センター・プロジェクト研究員/近世班)
「近世の「知」とメディア―発信と受容、そして変容―」
「知」(知識や知恵といった、専門的に体系づけられた情報)が近世のメディアを介して、どのように発信され、またそれを受容した上でどのような展開を見せるのかについて、受容と展開を中心に検討された。江戸時代では、前代とは異なり書物が人々のものの考え方に影響を与えたことを前提としたうえで、1)書物を通じた「知」の展開(学問の書物利用や読者の自身の行動への書物活用)、2)循環する「知」(学者や百姓が記した農書を例に「知」の相互関係性)、3)「いのち」をめぐる「知」(災害に関わる情報・知識をめぐる「知」の共存等)という観点から、近世における「知」とメディアの関係が示された。質疑応答では、当時の全国への流通のあり方、藩が都で購入した書物を地元に持ち帰ることで、それが全国的に流通する様相についてなどの質問が寄せられた。
- 横山泰子(法政大学・教授/近世班)
「歌舞伎と周辺領域―江戸東京の怪談文化の事例」
「メディアミックス」を複数の媒体を複合的に用いて人々の注目を得る手法として捉えたうえで、江戸時代から明治時代の歌舞伎の怪談物の事例を取り上げ、舞台と小説と絵等が直結していた前近代的な「メディアミックス」のあり方を考えるものであった。文化文政期の四代目鶴屋南北の歌舞伎劇を例に、版元による歌舞伎役者の人気に乗じた企画の例、演劇と読み物の世界の密接な関係、役者を軸とした歌舞伎劇における作者のあり方などが説明された。質疑応答では、紋など様々な媒体を用いた役者の個性の演出法について、質問が寄せられた。
- 研究発表セッション2◆
司会:細川周平(国際日本文化研究センター・教授/近代班代表)
- 伊藤慎吾(学習院女子大学・非常勤講師/国際日本文化研究センター・客員准教授/古代・中世班)
「妖狐玉藻像の展開―九尾化と綺堂作品の影響を軸として―」
中世に生み出された妖狐玉藻像の変遷をたどり、九尾化と綺堂作品の影響を軸として、メディア間の関係を検討するというものであった。玉藻を描いた物語は、中世には絵巻としても受容され、続いて絵本に仕立てられて広く流布した。近世では、芸能や美術の分野でも展開され、文学としても改作されていった。これらの展開における特徴として、犬追物由来、殺生石の由来の物語として生成されたこと、そして、玉藻像の九尾の個体名化が指摘された。さらに近代においては大正7年の岡本綺堂『玉藻の前』がその後の玉藻像に大きな影響を与え、それは今日の漫画やライトノベル、ゲーム、ご当地キャラクターなどにも及んでいることが指摘され、キャラクターの「世界」からの独立が示唆された。質疑応答では、改作されるなかで、玉藻の問答の場面がどう扱われたのかについての質問があった。
- 金子智太郎(東京藝術大学・非常勤講師/近代班)
「録音によるアマチュア創作文化「生録」における批評の意義」
1970年代の日本において、さまざまな音を録音することを楽しむ生録文化において批評がいかなる役割を担ったのか、実際の生録音源を紹介しながら考察された。まず1960年代では、オーディオ・ブームを背景に、批評にはハイファイの追求から録音の創造性へという議論の展開が認められることが指摘された。次に、70年代前半には、映画批評家などが批評に加わることで、他分野の創作文化との関連性を示唆ながら、愛好家の関心を身の回りの音や、録音すること自体へと関心が移行したことが指摘された。質疑応答では、漫画や映画では、アマチュアが批評にも参加していくが、生録文化ではどうであったのかについて質問が寄せられた。
- 近藤和都(日本学術振興会・特別研究員/現代班)
「1970-80年代初頭のアニメ文化における雑誌メディアの位置―メディアフロー、パラテクスト、リテラシー」
1970-80年代初頭において雑誌メディアがアニメ文化に及ぼした作用について、雑誌上で言及された「時差」に関する記述等をもとに分析するという発表であった。複数のテレビ局は『機動戦士ガンダム』を本放送終了後に放映し始めたため、その地域の人びとは「遅れて」同時期のアニメブームを推進した作品に接せざるをえなかったことを事例に、メディアフローの複数性(放送の「遅れ」と出版の「同時性」など)、雑誌を通してアニメを読むという行為(雑誌のパラテクストとしての機能など)、「遅れ」のなかでの視聴者=読者(非物語的な視聴のあり方など)といったメディアミックスを流通・受け手の観点から検討するうえでの多岐にわたる論点が示された。
- 研究発表セッション3 ◆
司会:劉建輝(国際日本文化研究センター・副所長)
- 秦剛(北京外国語大学北京日本学研究センター・教授/現代班)
「東宝映画株式会社の中国映画偽装工作」
映画史家・牧野守氏所蔵の東宝「中国映画工作」の未公開の一次資料により、中国映画を偽装した東宝の大陸工作のプロセスを再現するというものであった。上海光明影業公司製作の『椿姫』(李萍倩監督、原題『茶花女』))の1938年日本公開をめぐる「『茶花女』事件」にも発展する中国映画の偽装工作、特に東宝の出資の事実をめぐる詳細なプロセスが、両国をまたぐ複雑な契約体制、工作にかかわった東宝第二製作部の部長松崎啓次とその部下の市川綱二、中国側の劉吶鷗と黄天始らの人間関係、試写についての関係者の戸惑いの感想などの一次資料を通して生々しく伝わってきた。質疑応答では、牧野守コレクションの重要性についての紹介、宣伝工作に関わった軍部の人物についての質問、従軍画家など他のメディアでの宣伝工作との同時性についての指摘が寄せられた。
- ディック・ステゲウェルンス(オスロ大学・准教授/近代班)
「長期メディアミックス「永遠の0」における「愛」と「戦争」の連携」
小説を原作とし漫画・映画・ドラマが制作され、特に映画が空前の大ヒット作となった『永遠の0』のメディアミックスに注目するというものであった。まず、日本では占領期以降、戦争記憶についての3つの解釈があり、戦争表象をこれらの政治的声明と捉えたうえで、「日本国民の戦争記憶をめぐる映画戦争」における反「反戦」映画の一例としてこの事例が取り上げられた。小説・漫画・映画・ドラマの内容分析により、現代を挟むフラッシュバックとして「戦争」が扱われる巧妙な構造がみられ、消費者層の違いによって内容・登場人物配置が異なることが明確となり、特に映画版では、男女老若向けとして、戦争の原因と性格を隠蔽しながら、機械による「清潔な」戦争と男女のロマンスを強調する傾向が指摘された。質疑応答では、映画受容についての受容者側からの分析、これが流行した当時の日本の状況を問うことでこの現象への理解が深まるのではないかという指摘があった。
◆総合討議◆
司会 大塚英志(国際日本文化研究センター・教授)
まず司会より、この2日間の発表に共通する論点−大衆文化を「動態」としてとらえること、受容者が同時に作り手でもあること、文化を生成していく「集合知」への注目、動員のツールのメディアミックス−が提示された。そのあと、各報告者によるコメントがあった。
中牧弘允(吹田市立博物館・館長)
プロジェクトを統括する立場を「仕掛け(問題解決に向けて行動を変容させ、新たな価値を打ち立てる)と始末(プロジェクトを終える計画性を持って、仕切り直しを持って終える)に終始する」としたうえで、各発表者は「メディアミックス」という共通テーマに触発され「越境」のスタイルで発表に臨んだ点が指摘され、「メディアミックス」を「興行」としての装置、あるいは、情報システムをプロデュースする装置と捉えることで、「始末」への道筋が見えてくるのではないかと結ばれた。
呉座勇一(国際日本文化研究センター・助教/古代・中世班)
各発表が共有する論点として、3つの視座が示された。出版文化があってこそのメディアミックスという点、出版文化に取り込まれることによる世俗化、近世から近代にかけての知のあり方の変容という点で、いずれもその変化の過程を注視すべきであると結ばれた。司会からは、このプロジェクトの目的が「文化」の総体を見直すことにあり、その意味で、大衆文化研究の専門化による知の分断に注目するという論点もありうるとの返答があった。
香川雅信(兵庫県立歴史博物館・学芸課長/近世班)
各発表が今後共有すべき論点として、2点指摘された。第一に、出版文化の重要性で、例えば生録文化やアニメ文化においても雑誌の役割が大きく、そうした同人誌的ネットワークは17世紀の俳書にも見て取ることができると指摘された。第二に、メディアミックスを仕掛ける当事者への視点で、18世紀後半の平賀源内の登場にみるように、18世紀がメディアミックスの画期であったと考えることもできる。最後に、「ガンダム」と「永遠の0」における形式の共通性についてコメントがあった。
長門洋平(京都精華大学・非常勤講師/近代班)
「メディアミックス」という語の生成過程を概観することで、あらゆる文化が「メディアミックス」的であったがゆえ、これまでこの語があまり語られなかったのではないかと指摘された。さらに、各発表者に共通する論点として、第一に、間メディア性、異なるメディアでの狭間への注目、第二に、文化的、社会的事象をメディアの問題として考える点が指摘された。今後の研究の進展にあたり注意すべき点として、前近代では各メディアはどれほど異なっていたか、産業の主従関係をどう捉えるか、という問題が示された。
アルバロ・エルナンデス(国際日本文化研究センター・プロジェクト研究員/現代班)
メキシコでの漫画のファンコミュニティについての研究とメキシコ漫画「イエストリエタ」についての研究という自身の研究のバックグラウンドを踏まえて、今回の各発表を、人々の「活動」と「メディアミックス」の観点からまとめられた。さらに、今回のシンポジウムでの北米におけるメディア研究とは異なる論点として、「メディアミックス」をプロセスとしてみること、現代的な現象に限らない受け手の参画への視点が指摘された。
司会より各報告の共通点として、研究者の専門性がどうあるべきかという問題、文化を作っていくシステムをいかにとらえるかという問題があるとのコメントが寄せられたうえで、会場からは、メディアを超える文化現象について、その魅力の勘所を捉えることが肝要ではないか、学問における共同性の重要性、階層を超えた「普通」の読者や同じ活字媒体でも各ジャンルでの表現の違いに配慮することの重要性、といった意見が寄せられた。
以上の2日間のシンポジウムでは、会場からさまざまな意見が寄せられ、活発な議論がおこなれたことで、プロジェクト3年目の総括と今後の研究叢書作成などにつながる課題を具体的に見いだすことができた貴重な機会となった。
(*注:発表内容の紹介について、『第3回東アジア日本研究者協議会国際学術大会資料集』各発表者要旨を一部引用しています。レポート作成・前川志織)