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古代・中世班 H30年度共同研究会①レポート

古代・中世班 H30年度共同研究会①レポート
研究代表者:荒木浩

開催日時:平成30年4月21日(土)13:30~18:00、同22日(日)9:30~13:00

開催場所:国際日本文化研究センター第5共同研究室

出席者:19名+オブザーバー若干名

大衆文化プロジェクト古代・中世班共同研究「投企する古典性―視覚/大衆/現代」(代表:荒木浩)による平成30年度第1回の研究会では、下記の3つの研究報告が行われた。

4月21日

1)アンダソヴァ・マラル「『古事記』研究におけるミハイル・バフチンの〈対話論〉について」

2)屋良健一郎「近世琉球における和歌の受容と展開」

4月22日

3)岡田圭介「出版社を「編集」すること―「文学通信」の立ち上げと、学術メディアを取りまく状況」

 

4月21日

まず荒木浩氏によって今年度、来年度の計画説明がなされた。次いでアンダソヴァ・マラル氏の発表が行われた。

1)アンダソヴァ・マラル「『古事記』研究におけるミハイル・バフチンの〈対話論〉について」

本発表は2016年9月に中国上海で開催された第16回国際バフチン学会における口頭発表「バフチンの多声性のコンセプトと日本古代文学」を発展させたものである。

まず『古事記』研究になぜバフチンの〈対話論〉が有意義なのかということを説明した。

ミハイル・バフチンは1929年に『ドフトエフスキーの創作の問題』を出した後、しばらく評価されることがなかったが、60年代に入り注目されるようになった。日本でも60~70年代、バフチンの著書が翻訳されるようになる。これは世界的な流れに乗るもので、文学・思想・哲学・記号学・教育学・言語学など各界に影響を与えることになった。

日本文学研究の中では『源氏物語』研究に最も影響を与え、特に三谷邦明の言説論にそれは色濃く見える。ただし三谷は「一人称的な視点が表出することによる同化、または語り手と登場人物の声の重複による同化」を説くが、しかしバフチンはそれよりも「異なる価値評価がお互いに衝突しながら、常に新たな相互関係を作り出しているという対話」を問題視する。ドフトエフスキーをはじめとする近代小説を主たる分析対象としてきたバフチンは、様々な価値観をもつ個人(作者/語り手/登場人物/読者)の対話を捉えようとしたのに対して、三谷の扱う平安文学は主体性がない。そのために三谷の言説論は語り手/登場人物/読者を〈同化〉する存在として捉えているのではないかと推測する。

バフチンの対話論は、単一的世界として物語を捉えることに対する批判として受け取ることで、『古事記』研究に反映させられると考える。そこで『古事記』における「葦原の中つ国」に関する記述を分析し、西郷信綱や神野志隆光らの研究を検証しつつ、大国主が自らの世界を「葦原の中つ国」と呼んでいないことに着目する。そして別の呼称や「国」「天下」などの分析を通して『古事記』にはいくつもの主観が交差しており、その主観は登場人物のレベルを超え、他のテクストとも交差するという。さらに特権を保持した中心的な世界は存在せず、単一的な意識へと還元されない叙述であり、特権的な視点や、中心的な原理がなく、様々な意識が動的に対立しあう声たちの場となっているとする。

質疑では、神の憑依現象として捉えられている表現を言説論の視点から読む意義、代名詞と人格の問題に対話論がどうかかわるのか、特権的な視点や中心的な原理がなく多声としてあるということと『古事記』編纂の関係、古代や前近代の作品分析でポリフォニーやダイアローグが使われているのか、『古事記』の作者性などについてやりとりが行われた。

 

2)屋良健一郎「近世琉球における和歌の受容と展開」

近世琉球において、和歌がどのように受容され、展開していったのかという大きな問題を取り上げた。琉球の文学研究は、おもろや琉歌を中心に研究が行われてきた。また組踊や近代の芝居の研究もある。それに対して、和歌の研究はほとんど行われてきていない。和歌は日本本土から渡ってきたものであり、琉球の独自性という点から関心が払われてこなかったからである。本発表はその意義を示すものであった。

琉球の和歌の受容という点からいうと、薩摩との関係がもっとも重要である。しかし、その関係性はもっぱら政治的側面が重視され、文化的側面は重視されることがなかった。和歌研究が本格化したのは1980年代~90年代であり、この間、基礎情報が蓄積されていき、どういう人たちが和歌を作っていたのか、徐々に明らかになっていった。従来の研究は元禄年間と天保年間が劃期だということで、集中的に行われてきた。そのため、元禄以前や天保までの間は十分に明らかにされていないのが現状である。

本発表では、まず17世紀初期までの琉球人と和歌の概要を捉えた。すなわち古琉球期(~1609年)、島津氏の琉球侵攻(1609年)直後の2つの期間であるが、いずれも史料に乏しいものの、琉球で和歌を嗜む人々が限定的ながらもいたことが確認でき、王族や高官、日本からの移住者を作者として想定されると推測している。

近世期に下ると、史料が充実してくる。発表では和歌を詠む場や和歌習得の在り方を中心に論じた。この時期、琉球人の薩摩上陸、薩摩役人の琉球赴任などによって、和歌に接する機会が増加した。和歌の習得は琉蔵役や在番奉行といった、琉球・薩摩間を往来する人々にとって重要なことであった。そして薩摩藩士を介して中央歌壇との接触を持ち得たという。

最後に、琉球人の和歌の特徴としては、江戸立ちでの作歌、中国での作歌、琉球の地名の使用、琉球方言など珍しい言葉の使用が挙げられるという。

質疑では、琉球の人々が和歌を詠む必要性、琉球人同士の歌会の存在、江戸立ちの時の和歌の特徴、琉球における歌集・歌書の出版事情、書籍の伝来などに関するやりとりが行われた。

 

3)岡田圭介「出版社を「編集」すること―「文学通信」を立ち上げと、学術メディアを取りまく状況」

本発表は学術書の出版事業に携わってきた出版人として、1996年に笠間書院に入社して以来、独立して今日に至るまでの学術メディアを取りまく状況の推移と今後の諸問題について、発表者自身の経験を交えて論じたものである。

発表者が出版業界に入った1996年は、日本における出版物の売り上げが過去最高の年であった。しかしその後は右肩下がりで、今年は半減してしまった。

出版社の団体としては日本書籍出版業会が老舗であるが、今日、版元ドットコム(1999年立ち上げ)は約260社に及び、大きな勢力となっている。これによって新刊情報などが一発で発信できるようになった。その拡大の背景にはインターネットがある。

現在、出版物はあまり売れなくなった。しかしそうなっても収益があったのは、この間、技術革新があったからだ。たとえば組版用の大きな機材が必要だったものの、1992~3年ころからソフトが作られるようになった。中でもアドビが組版ソフトを作ったのが大きい。また組版を電算写植に出すよりも、安価に本が作れるようになった。DDPと同時に印刷の現場にも技術革新が起こり、CTP(computer to plate)の登場によって価格崩壊が起こった。これによって2000~3000円から450~500円くらいに料金が下がった。出版物が売れなくても、増加した要因になっているのではないかと思われる。

ところで図書館流通センター(TRC)というところがある。その書誌情報作成は120~130人が行っている。ここのデータを2800館(3261館のうち)の公共図書館が利用している。ここのデータは書籍の主題などもわかり、便利である。有料だが便利で誤りも少ない点に特徴がある。これを使うと、他のDBが使えなくなるくらいだ。同時にTRCから本を買うことにもなる。結果、非常な独占状態になる。街の書店がつぶれる理由の一因は、TRCや大手に取られてしまうことがあるのだ。

笠間書院のブログは、開設当時、『国文学 解釈と教材の研究』『国文学 解釈と観賞』があったが、もっとコアの情報を出したいと思って作った。しかしこれらの雑誌はなくなってしまった。ブログを始めた当初は情報の羅列に過ぎなかったが、意味があるかと思い続けてやっていた。最終的に、20000記事以上になっていたし、アクセス数もかなりのものになっていた。一日1000アクセス前後だった。

また、2011年に「見えないものを可視化する」というコンセプトのもと、大量の論文情報を自動化すべく「俺CiNii」を作った。

雑誌は今、壊滅状態になっている。みな、ネットで見るようになっているからである。雑誌は主要な書店の収入源になっていたが、それができなくたった。書店までの物流もダメージが大きい。書籍の流通コストが上がり、書店が減り、売り場も減り、取次店がピンチとなっている。出版社も、普通に考えて収入が減るだろう。

東日本大震災後、日本の電子書籍の遅れを取り戻す国策が行われた。しかし、「文字もの」はごくわずかで、市場のほとんどがコミックで占められている。

こうした中で、言論は「商売」にできるかが大きな問題となる。ここに聴衆の存在が欠かせないこと、学問の閉鎖性を取り払うことが解決の糸口となるだろうということを述べた。

質疑の中では、国文系の学会の規模や今後の問題、隣接諸学との連携、古典に親しむ環境づくりやさまざまなアイディアの必要性、情報量の増加やグローバル化がかえって視野狭窄をもたらし同じ研究者への依頼の集中することへの危険性、議論する言説空間の構築の在り方、編集者本意の学術系メディア編集の意義、デジタルヒューマニティーズとの関係性など様々な点について議論が交わされた。

(文責・伊藤慎吾)